佐藤一斎門下であった山田方谷は、夜になるときまって佐久間象山と激しく論戦した。
あまりの騒がしさに門下生が一斎先生に直訴すると、一斎はしばらく思案して答えていった。
あの二人ならば仕方がない、しばらく我慢せい、と。
最後まで新政府軍と抗戦の構えであった藩主の板倉勝静(いたくらかつきよ)は、山田方谷の策謀によって引き戻され隠居させられた。
後に山田方谷の訃報に接すると、方谷の高弟であった三島中洲にこう述べたという。
先生は吾れをたすけて藩政を改正した、その功が埋もれてしまうのは忍びない、汝それ銘を作れ、と。
その墓碑は高梁市の八重籬神社(やえがきじんじゃ)に建立されている。
八・九歳の少年であった山田方谷は、丸川松陰(まるかわしょういん)の塾に入った。
客が来て問うていった。
おまえは学問をしてどうしたいのか、と。
方谷は応じていった。
治国平天下、と。
越後長岡の河井継之助(かわいつぐのすけ)は江戸遊学の後に一年ほど師事し、その印象を次のように語っている。
吾れ諸大家に歴事したれども、其の学の如何を知らず、活用事業に至りては、則ち我が方谷先生に若(し)くものなし、と。
なお、河井は以前に江戸で齋藤拙堂や佐久間象山などに従事していた。
山田方谷の財政再建は有名だが、軍備面では近代化を進めて農兵制度である「里正隊」を組織している。
一説に、長州の「奇兵隊」や河井継之助の近代武装は、これを参考にしたものだという。