山田方谷

山田方谷
  • 1.やまだほうこく
  • 1.幕末の政治家。備中松山藩に仕えて藩政改革を断行。その治績は旅人が領内に一歩入るとすぐに分かる程であったという。

    参考文献:::山田方谷

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    佐藤一斎門下であった山田方谷は、夜になるときまって佐久間象山と激しく論戦した。
    あまりの騒がしさに門下生が一斎先生に直訴すると、一斎はしばらく思案して答えていった。
    あの二人ならば仕方がない、しばらく我慢せい、と。

    最後まで新政府軍と抗戦の構えであった藩主の板倉勝静(いたくらかつきよ)は、山田方谷の策謀によって引き戻され隠居させられた。
    後に山田方谷の訃報に接すると、方谷の高弟であった三島中洲にこう述べたという。
    先生は吾れをたすけて藩政を改正した、その功が埋もれてしまうのは忍びない、汝それ銘を作れ、と。
    その墓碑は高梁市の八重籬神社(やえがきじんじゃ)に建立されている。

    八・九歳の少年であった山田方谷は、丸川松陰(まるかわしょういん)の塾に入った。
    客が来て問うていった。
    おまえは学問をしてどうしたいのか、と。
    方谷は応じていった。
    治国平天下、と。

    越後長岡の河井継之助(かわいつぐのすけ)は江戸遊学の後に一年ほど師事し、その印象を次のように語っている。
    吾れ諸大家に歴事したれども、其の学の如何を知らず、活用事業に至りては、則ち我が方谷先生に若(し)くものなし、と。
    なお、河井は以前に江戸で齋藤拙堂や佐久間象山などに従事していた。

    山田方谷の財政再建は有名だが、軍備面では近代化を進めて農兵制度である「里正隊」を組織している。
    一説に、長州の「奇兵隊」や河井継之助の近代武装は、これを参考にしたものだという。

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