- 備考
- #1攻は治なり、異端は古の方語、其の端相異(そうい)にして一ならざるを謂ふなり。
言ふは、力を根本に用ひずして徒(いたずら)に其の端の異なる所を治むるは、則ち害有るなり。(伊藤仁斎「論語古義」) - #2言ふは、学問の道、力を其の本に用ふれば、則ち末は自ずから治まる。
徒(いたずら)に其の末を脩(おさ)むるは、則ち必ず其の本を遺(わす)る、必然の理なり。
後世の学、力を道徳仁義に用ひず、而して徒に事に於いて記誦(きしょう)詞章(ししょう)に従ひ、其の多寡(たか)を争ひ、其の短長を較ぶ、此れ亦た異端を攻(おさ)むるの類のみ。
本末倒置、軽重所を易(か)ふ、其の害勝(あ)げて言ふ可からざる者有るなり。(伊藤仁斎「論語古義」) - #3論に曰く、
異端の称は、古より之れ有り。
後人、専ら佛老の教を指して異端と為す者は誤れり。
孟子の時、或ひは邪説暴行と称し、或ひは楊墨の徒と直称せり。
見る可し、其の時、猶ほ未だ異端を以て之れを称せざりしごときを。
若(も)し夫れ佛老の教は即ち謂ふ所の邪説暴行にして、亦た異端の上に在り。
豈に攻(おさ)むるを待ちて而(しか)る後に害有らんや、と。(伊藤仁斎「論語古義」)