八佾3

原文↑↑↑

子曰。
人而不仁。如禮何。
人而不仁。如樂何。

書き下し文↑↑

子曰く、
人にして仁ならずんば、(れい)如何(いかん)せん。
人にして仁ならずんば、(がく)を如何せん、と。#1#2#3

現代語訳↑

孔子が言った。
人にして仁がなければ、礼儀に何の意味があろう。
人にして仁がなければ、音楽に何の意味があろう、と。

備考
#1言ふは、なる者は徳の本、禮楽(れいがく)なる者は徳の(すい)、人にして不仁なるは其の本既に無し。
禮楽を行はんと欲すと雖も、豈に其の用を為さん哉(や)
其の見る所の者は徒(いたずら)に威儀(いぎ)節奏(せっそう)のみ。(伊藤仁斎「論語古義」)
#2論に曰く、
七篇(しちへん)の書は、論語の義疏(ぎそ)なり。
故に孟子の意を得て、而る後に以て論語の義を(さと)る可し。
(いやし)くも之れを孟子に本づかずして、徒(いたずら)に論語の字面に従ひて其の意義を求めんと欲するときは、則ち牽強(けんきょう)通ぜず、必ず誤りを致すに至る。
宋儒の謂ふ所の、仁は天下の正理といふが若(ごと)きは是れのみ。
学者は知らずんばある可からず。(伊藤仁斎「論語古義」)
#3禮儀(れいぎ)三百、威儀(いぎ)三千、其の人を待ちて然る後に行はるれば、則ち不仁の人、禮楽を用いんと欲すと雖も、而(しか)も禮楽豈に之れが用を為さんや。
或る人曰く、
仁は惻隠の充(み)てるなり、何ぞ禮楽に関はらん、と。
曰く、
慈愛(じあい)惻怛(そくだつ)の心は衆徳の由つて生ずる所、萬事の由つて立つ所、仁人の天下に於ける、何の事か成らざらん、何を行ひてか得ざらん。
(いわん)や禮楽に於いてをや。(伊藤仁斎「論語古義」)

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