中江藤樹

中江藤樹
  • 1.なかえとうじゅ
  • 1.江戸初期の儒学者。日本陽明学の祖。近江聖人と尊称。初め伊予の大洲藩に仕え、のち故郷近江に帰って私塾を開講。その感化は近隣の農民にまで及んだという。

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    参考文献:::中江藤樹

    • 江西書院(こうせいしょいん)名(な)を聞くこと久し、五十年前(ごじゅうねんぜん)義方(ぎほう)を訓(おし)ふ(漢詩

    大野了佐は愚鈍であった。
    父は甚だ憂えて武士となることを止めさせた。
    悲しんだ了佐は医学を学ばんと教えを乞うた。
    藤樹はその心を憐れんで、医書「大成論」を読ませた。
    了佐は二三句を読むのに二百遍を要し、朝十時から午後四時に至ってようやく覚えて帰った。
    それなのに夕食を終えれば一字も読むことを得ず、再び藤樹を訪ねて百余遍、遂にその二三句を覚えた。
    このようにしてようやく大成論を終えた。
    やがて藤樹は近江に帰省した。
    了佐は近江を訪ねた。
    藤樹は了佐のために「医筌(いせん)」を作って講じ、終に医者として大成させた。
    後に藤樹は門人に語っていった。
    私がいかに教えたとしても、彼が勉めなければ何のことがあろうか。
    彼は確かに愚鈍であったが、その努力には感ずべきである。
    お前たちはよくよく学ばなければならない、と。

    三輪執斎が近江に立ち寄った。
    中江藤樹の墓に参らんとして農夫に道を問うと、農夫は農具を置いて家に入り、衣装を改めて案内した。
    墓の門に至った農夫の様子は粛然としたものであった。
    三輪執斎は怪しんで尋ねた。
    どのような間柄で、敬礼このように至るのか、と。
    農夫は答えていった。
    藤樹先生を敬慕するのは、私のみではありません。
    私の村では皆がこのようなのです。
    父老は常にその子弟に申しております。
    吾が里に父子礼あり、兄弟恩あり、室に忿疾(ふんしつ)の声なく、面に和煦(わく)の色ある者、職として藤樹先生の遺教に由ると。
    これ一人としてこの思いを戴かざる者の居らぬ所以なのです、と。
    三輪執斎は容(かたち)を改めていった。
    世に称して近江聖人というが、私は改めてそれが虚賛でないことを知った、と。
    そして藤樹の墓を拝し、農夫に謝して去ったという。

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