- 備考
- #1言ふは、仁なる者は徳の本、禮楽(れいがく)なる者は徳の推(すい)、人にして不仁なるは其の本既に無し。
禮楽を行はんと欲すと雖も、豈に其の用を為さん哉(や)。
其の見る所の者は徒(いたずら)に威儀(いぎ)節奏(せっそう)のみ。(伊藤仁斎「論語古義」) - #2論に曰く、
七篇(しちへん)の書は、論語の義疏(ぎそ)なり。
故に孟子の意を得て、而る後に以て論語の義を暁(さと)る可し。
苟(いやし)くも之れを孟子に本づかずして、徒(いたずら)に論語の字面に従ひて其の意義を求めんと欲するときは、則ち牽強(けんきょう)通ぜず、必ず誤りを致すに至る。
宋儒の謂ふ所の、仁は天下の正理といふが若(ごと)きは是れのみ。
学者は知らずんばある可からず。(伊藤仁斎「論語古義」) - #3禮儀(れいぎ)三百、威儀(いぎ)三千、其の人を待ちて然る後に行はるれば、則ち不仁の人、禮楽を用いんと欲すと雖も、而(しか)も禮楽豈に之れが用を為さんや。
或る人曰く、
仁は惻隠の充(み)てるなり、何ぞ禮楽に関はらん、と。
曰く、
慈愛(じあい)惻怛(そくだつ)の心は衆徳の由つて生ずる所、萬事の由つて立つ所、仁人の天下に於ける、何の事か成らざらん、何を行ひてか得ざらん。
況(いわん)や禮楽に於いてをや。(伊藤仁斎「論語古義」)