- 備考
- #1林放は魯人、世の禮を為す者の専ら繁文を務むるを見て、而して其の本の是に在らざるを疑ふ。(伊藤仁斎「論語古義」)
- #2禮は先王の制する所、時王の用ゆる所、今、放、之れを疑ふ、故に夫子其の問いを大なりとするなり。
易は治なり、禮は節制(せっせい)する所以なり、喪は哀を致す所以なり、故に禮の奢りて物を備ふるは、儉にして備へざるに若(しか)ず、喪の易にして禮を盡すは、戚にして文ならざるに若かず、其の本を得るが故なり。
若し夫れ徒(いたずら)に繁文(はんぶん)を務めて、而して其の本實を遺(わす)る者は、固(もと)より禮を為す所以に非ざるなり。
放、特に禮を問ひて、而して夫子兼ねて喪を言ふ者は、蓋し其の意の備はらんことを欲するなり。(伊藤仁斎「論語古義」) - #3禮を為す者は必ず物の備はらんことを好み、物の備はらんことを好めば則ち必ず文勝つに至る。
喪を為す者は必ず治めて失無からんことを欲し、治めて失無からんことを欲すれば則ち必ず其の實を失ふ。
故に禮は儉を以て本と為し、喪は哀を以て本と為す、聖人の實を尚(とうと)ぶや此の如し。(伊藤仁斎「論語古義」) - #4論に曰く、
舊註に謂ふ、禮は中を得るを貴ぶ、と。
其の説は禮記に本づくも、然れども聖人の意に非ざるなり。
嘗て曰く、先進の禮樂に於けるや野人なり、後進の禮樂に於けるや君子なり、如(も)し之れを用うれば吾は先進に從はん、と。
又た曰く、奢れば則ち不孫、儉なれば則ち固(いや)し、其の不孫ならんよりは寧ろ固(いや)しかれ、と。
及び此の章の如き、後世の學より之れを言へば、中に及ばざるの病有るに似たり、故に以て時を救ふの論と為す。
然れども聖人の道は、儉を尚(とうと)びて奢(しゃ)を惡(にく)み、其の世を經(おさ)めて民を理(おさ)む、常に盈滿(えいまん)を戒めて、而して退損(たいそん)に從ふ、禮を以て敎を為すと雖も、而も必ず儉を以て本と為す、其の言の中に及べる者は甚だ少なし。
蓋し儉は以て禮を守る可く、而して中は則ち執守す可からざるを以てなり。(伊藤仁斎「論語古義」)