為政9

原文↑↑↑

子曰。
吾與囘言。終日不違如愚。
退而省其私。亦足以發
囘也不愚。

書き下し文↑↑

子曰く、
吾れ回(かい)と言ふ、終日(たが)はざること(おろか)なるが(ごと)し。#1
退(しりぞ)きて其の(わたくし)(かへり)みれば、(ま)た以て(はつ)するに(た)る。#2
(かい)や愚(おろか)ならず、と。#3

現代語訳↑

孔子が言った。
顔回(がんかい)と話をしたが、一日中おとなしく聴くばかりで愚者のようであった。
しかし退いてその日々の生活をみてみれば、また教えたくなる。
顔回は愚かではない、と。

ここでは孔子が道を説き、教えを授け、顔回はこれを受けて日々の生活の中で実践し、それを以て孔子が「教え甲斐がある」と嘆じた形に解した。
顔回の日々の姿から「教えられることが多い」と解する場合もある。

備考
#1終日の間、一言の違逆(いぎゃく)無きこと愚者の如く然(しか)り。
聴受(ちょうじゅ)有りて問難(もんなん)無きなり。(伊藤仁斎「論語古義」)
#2私は燕居(えんきょ)独居(どっきょ)を謂ふ、進見(しんけん)請問(せいもん)の時に非ざるなり。
言ふは、其の私を省みるに及びて亦た以て夫子(ふうし)の道を発揮(はっき)するに足れり。(伊藤仁斎「論語古義」)
#3此れ夫子(ふうし)、顔子の聡明(そうめい)を事とせず、深造(しんぞう)妙契(みょうけい)、常人(じょうじん)の能(よ)く及ぶ所に(あらざ)るを称するなり。
聖人終日の(だん)、皆な平淡(へいたん)易直(いちょく)、人の聴聞(ちょうぶん)(おどろ)かす者無し。
顔子の聡明、一たび之を聞かば則ち実に以て其の天地を(か)ね、古今を貫き、(ま)余蘊(ようん)する無きを知ること有り。
(ただ)口の芻豢(すうけん)を悦(よろこ)ぶが若(ごと)きなり。
故に其の与(とも)に言ふ所の者、問弁(もんべん)詰難(きつなん)を待たずして、言行(げんこう)の間(かん)発露(はつろ)す。
(な)ほ草木の時雨(じう)(へ)て、勃然(ぼつぜん)として興起(こうき)するがごとし。
他人の(き)(おは)りて便(たやす)く休むが(ごと)きに非ざるなり。
夫子、其の私を省みるに及びて、便(すなは)ち其の(しか)るを知る。
故に曰く、回(かい)や愚(ぐ)ならずと。
(かさ)ねて之を歎ずるなり。
(そ)れ其の智の(あらは)る可(べ)き者は、智の未(いま)だ深からざる者なり、智にして見(あらは)る可からざる者は、(すなは)ち是れ智の最も深き者なり。
(これ)(たと)ふるに、川流(せんりゅう)の浅き、其の勢(せい)駛漲(しちょう)すと(いえど)も、猶(な)(ある)ひは(わたる)べし、淵海(えんかい)の深き、汪洋(おうよう)(こ)として(はか)る可(べ)からざるなり。
所謂(いわゆる)(ぐ)なるが如(ごと)き者是(これ)なり。
智を去り聖を(た)ち、昏黙(こんもく)(ぐ)を守るの謂(い)ひに非ず、其の聡明(そうめい)を事(こと)とせざるは、是れ其の智の(いよいよ)深き所以(ゆえん)なり。(伊藤仁斎「論語古義」)

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