- 備考
- #1終日の間、一言の違逆(いぎゃく)無きこと愚者の如く然(しか)り。
聴受(ちょうじゅ)有りて問難(もんなん)無きなり。(伊藤仁斎「論語古義」) - #2私は燕居(えんきょ)独居(どっきょ)を謂ふ、進見(しんけん)請問(せいもん)の時に非ざるなり。
言ふは、其の私を省みるに及びて亦た以て夫子(ふうし)の道を発揮(はっき)するに足れり。(伊藤仁斎「論語古義」) - #3此れ夫子(ふうし)、顔子の聡明(そうめい)を事とせず、深造(しんぞう)妙契(みょうけい)、常人(じょうじん)の能(よ)く及ぶ所に非(あらざ)るを称するなり。
聖人終日の談(だん)、皆な平淡(へいたん)易直(いちょく)、人の聴聞(ちょうぶん)を駭(おどろ)かす者無し。
顔子の聡明、一たび之を聞かば則ち実に以て其の天地を包(か)ね、古今を貫き、復(ま)た余蘊(ようん)する無きを知ること有り。
啻(ただ)口の芻豢(すうけん)を悦(よろこ)ぶが若(ごと)きなり。
故に其の与(とも)に言ふ所の者、問弁(もんべん)詰難(きつなん)を待たずして、言行(げんこう)の間(かん)に発露(はつろ)す。
猶(な)ほ草木の時雨(じう)を経(へ)て、勃然(ぼつぜん)として興起(こうき)するがごとし。
他人の聴(き)き了(おは)りて便(たやす)く休むが若(ごと)きに非ざるなり。
夫子、其の私を省みるに及びて、便(すなは)ち其の然(しか)るを知る。
故に曰く、回(かい)や愚(ぐ)ならずと。
重(かさ)ねて之を歎ずるなり。
夫(そ)れ其の智の見(あらは)る可(べ)き者は、智の未(いま)だ深からざる者なり、智にして見(あらは)る可からざる者は、乃(すなは)ち是れ智の最も深き者なり。
諸(これ)を譬(たと)ふるに、川流(せんりゅう)の浅き、其の勢(せい)の駛漲(しちょう)すと雖(いえど)も、猶(な)ほ或(ある)ひは渉(わたる)べし、淵海(えんかい)の深き、汪洋(おうよう)乎(こ)として測(はか)る可(べ)からざるなり。
所謂(いわゆる)愚(ぐ)なるが如(ごと)き者是(これ)なり。
智を去り聖を絶(た)ち、昏黙(こんもく)愚(ぐ)を守るの謂(い)ひに非ず、其の聡明(そうめい)を事(こと)とせざるは、是れ其の智の愈(いよいよ)深き所以(ゆえん)なり。(伊藤仁斎「論語古義」)