巻之一

王戎簡要Link

晋書。王戎。字濬冲。琅邪臨沂人。幼而頴悟。神彩秀徹。視日不眩。裴楷見而目之曰。戎眼爛爛。如巖下電。阮籍素與戎父渾為友。戎年十五。隨渾在郎舎。少籍二十歳。籍與之交。籍毎適渾去。輒過視戎。良久然後出。謂渾曰。濬冲清賞非卿倫也。共卿言。不如共阿戎談。歴官至司徒。

晋書にいふ、王戎(おうじゅう)、字(あざな)は濬沖(しゅんちゅう)、琅邪(ろうや)臨沂(りんぎ)の人なり。幼(よう)にして頴悟(えいご)神彩(しんさい)秀徹(しゅうてつ)、日を視て(げん)ぜず。裴楷(はいかい)(まみ)へて之れを目(もく)して曰く、戎(じゅう)(まなこ)爛爛(らんらん)たること、巌下(がんか)の電(でん)の如し、と。阮籍(げんせき)(もと)より戎(じゅう)が父、渾(こん)と友たり。戎(じゅう)、年十五、渾(こん)(したが)ひて郎舎(ろうしゃ)に在り。籍(せき)より(わか)きこと二十歳、籍、之と交はる。籍、渾(こん)(ゆ)きて去る毎に、(すなは)ち過ぎて戎(じゅう)を視、(や)や久しうして然る後に出(い)づ。渾(こん)に謂ひて曰く、濬沖(しゅんちゅう)清賞(せいしょう)、卿(けい)(りん)に非ざるなり。卿(けい)と共に言ふは、阿戎(あじゅう)と共に談ずるに如かず、と。官を(へ)司徒(しと)に至る。

晋書にいう。王戎(おうじゅう)、字(あざな)は濬沖(しゅんちゅう)、琅邪(ろうや)臨沂(りんぎ)の人である。幼少より才知に優れ、その風貌は透き通るようで、眼光の鋭さは太陽をみつめても眩(くら)まなかった。裴楷(はいかい)は王戎に見(まみ)えると賛嘆して言った。王戎の眼(まなこ)は爛々として、まるで巌下(がんか)の暗闇に閃く雷電のようだ、と。阮籍(げんせき)は王戎の父・王渾(おうこん)と旧知の間柄であった。王戎は十五歳の時、父に従って宿舎に居た。阮籍より二十歳も年下であったが、阮籍はこれと交わった。阮籍は王渾を訪問すれば、必ず王戎のもとに立ち寄り、しばらくして後に帰った。王渾に言った。濬沖(しゅんちゅう)の素晴らしさは、貴方の類(たぐ)いではない。貴方と共に語り合うのは、王戎と共に清談するに遠く及ばない、と。王戎は官職を歴任して司徒まで至った。

裴楷精通Link

晉裴楷。字叔則。河東聞喜人。明悟有識量。少與戎齊名。鍾會薦於文帝。辟相國掾。及吏部郎缺。帝問鍾會。會曰。裴楷清通。王戎簡要。皆其選也。於此用楷。楷風神高邁。容儀俊爽。博渉羣書。特精理義。時謂之玉人。又稱。見叔則如近玉山。照映人也。轉中書郎。出入官省。見者肅然改容。武帝登祚。探策以卜世數多少。既而得一。不悦。羣臣失色。楷曰。臣聞天得一以清。地得一以寧。王侯得一以為天下貞。帝大悦。累遷中書令侍中。

晋の裴楷(はいかい)、字(あざな)は叔則(しゅくそく)、河東(かとう)聞喜(ぶんき)の人なり。明悟(めいご)にして識量(しきりょう)有り、少(わか)くして(じゅう)と名を(ひと)しうす。鍾会(しょうかい)、文帝に(すす)め、相国(しょうこく)(じょう)(め)さる。吏部郎(りぶろう)(か)くるに及び、帝、鍾会(しょうかい)に問ふ。会(かい)曰く、裴楷(はいかい)清通王戎(おうじゅう)簡要、皆な其の選(せん)なり、と。是(ここ)に於ひて楷(かい)を用ふ。楷(かい)風神(ふうしん)高邁(こうまい)容儀(ようぎ)俊爽(しゅんそう)、博(ひろ)く群書(ぐんしょ)に渉(わた)り、特(とく)理義(くは)し。時に之を玉人(ぎょくじん)と謂ふ。又た称す、叔則(しゅくそく)を見れば、玉山(ぎょくざん)に近づくが如く、人を照映(しょうえい)す、と。中書郎(ちゅうしょろう)に転じ、官省(かんしょう)に出入するに、見る者粛然(しゅくぜん)として(かたち)を改む。武帝、(そ)に登り、(さく)を探り、以て世数(せすう)の多少を(ぼく)す。既にして一を得て悦ばず、群臣色を失ふ。楷(かい)曰く、臣聞く、天は一を得て以て清く、地は一を得て以て(やす)く、王侯は一を得て以て天下の(てい)たり、と。帝、大ひに悦ぶ。中書令(ちゅうしょれい)侍中(じちゅう)累遷(るいせん)す。

晋の裴楷(はいかい)、字(あざな)は叔則(しゅくそく)、河東(かとう)聞喜(ぶんき)の人である。道理に通じ、識見器量ともに優れていたので、若くして王戎(おうじゅう)と名声を等しくした。鍾会(しょうかい)が文帝に推挙し、宰相の下役に登用された。吏部郎の職が空くと、文帝が鍾会に尋ねた。鍾会が言った。裴楷は物事によく通じ、王戎は物事の本質をよく掴みます、どちらも充分に務まるでしょう、と。こうして裴楷を用いた。裴楷は気品にあふれ、風格清々しく、多くの書籍に親しみ、特に老子や易に通じていた。人々はこれを「玉人」と呼んだ。またこうも称した、叔則(しゅくそく)を見れば、玉山(ぎょくざん)に近づくが如く、人を見事に照らし出す、と。中書郎となり、宮中に出入りすると、出会った者は皆な粛然(しゅくぜん)として態度を改めた。武帝が即位し、めどぎを用いて晋の世の行く末を占なった。結果は一であったので、武帝は悦ばず、臣下は皆な畏れた。裴楷が言った。私はこのように聞いています「天は一を得て以て清く、地は一を得て以て寧(やす)く、王侯は一を得て以て天下の貞(てい)たり」と。武帝は大いに悦んだ。中書令、侍中を歴任した。

孔明臥龍Link

蜀志。諸葛亮字孔明。琅邪陽都人。躬耕隴畝。好為梁父吟。毎自比管仲樂毅。時人莫之許。惟崔州平徐庶與亮友善。謂為信然。時先主屯新野。徐庶見之謂曰。諸葛孔明臥龍也。將軍豈願見之乎。此人可就見。不可屈致。宜枉駕顧之。先主遂詣亮。凡三往反乃見。因屛人與計事善之。於是情好日密。關羽張飛等。不悦。先主曰。孤之有孔明。猶魚之有水也。願勿復言。及稱尊號。以亮為丞相。漢晋春秋曰。亮家南陽鄧縣襄陽城西。號曰隆中。

蜀志(しょくし)にいふ、諸葛亮(しょかつりょう)、字は孔明、琅邪(ろうや)陽都(ようと)の人なり。(みづか)隴畝(ろうほ)に耕し、好んで梁父吟(りょうほぎん)を為し、(つね)に自ら管仲(かんちゅう)楽毅(がっき)に比す。時人(じじん)、之れを許す莫し。惟(た)崔州平(さいしゅうへい)徐庶(じょしょ)、亮と友とし善し、謂ひて(まこと)に然りと為す。時に先主(せんしゅ)新野に屯(とん)す、徐庶(じょしょ)、之れに見(まみ)え謂ひて曰く、諸葛孔明は臥龍(がりょう)なり、将軍、豈(あ)に之れに見(まみ)へんことを願ふか。此の人、就(つ)きて見るべく、屈致(くっち)すべからず、宜しく(が)(ま)げて之を顧(かへり)みるべし、と。先主、遂に亮に(いた)り、凡そ三たび往(ゆ)きて乃ち見る。因りて人を(しりぞ)け、与(とも)に事を計り、之を善しとす。是に於いて情好(じょうこう)日に密たり。関羽張飛等悦ばず。先主曰く、(こ)の孔明あるは、猶ほ魚(うお)の水あるがごときなり。願はくば(ま)た言ふ勿れ、と。尊號(そんごう)を称するに及び、亮を以て丞相(じょうしょう)と為す。漢晋春秋に曰く、亮、南陽(なんよう)鄧縣(とうけん)襄陽城(じょうようじょう)の西に家(いへ)し、號(ごう)して隆中(りゅうちゅう)と曰(い)ふ、と。

蜀志にいう。諸葛亮、字は孔明、琅邪(ろうや)陽都(ようと)の人である。田畑を耕しながら、好んで梁父吟(りょうほぎん)を詠い、つねに自らを管仲・楽毅に比していた。人々は決してこれを認めなかった。ただ崔州平と徐庶は諸葛亮と善く交わり、その言葉に納得した。時に劉備は新野に駐屯し、徐庶はこれに謁見して言った。諸葛孔明は臥せる龍の如き人物です、どうしてこれに会おうとしないのですか。この人は自ら訪ねていくべきで、呼び寄せなどには応じません、どうか労を惜しまずに出向いてください、と。劉備は遂に諸葛亮の元へゆき、三度訪れて会うを得た。そこで周囲の者を退け、共に今後の方針を計り、これを善しとした。こうして二人は日々に親密となっていった。関羽・張飛等は悦ばなかった。劉備が言った。私に孔明があるのは、例えるならば魚に水があるようなものだ。頼むからもう言わないでほしい、と。帝位に即位すると、諸葛亮を以て丞相に任じた。漢晋春秋にいう。諸葛亮は、南陽(なんよう)鄧縣(とうけん)襄陽城(じょうようじょう)の西に家を構え、号して隆中という、と。

呂望非熊Link

六韜曰。文王将田。史編布卜曰。田於渭陽。將大得焉。非龍非彲。非虎非羆。兆得公侯。天遺汝師。以之佐昌。施及三王。文王曰。兆致是乎。史編曰。編之太祖史疇。為舜占得皐陶。兆比於此。文王乃齋三日。田於渭陽。卒見太公坐茅以漁。文王勞而問之。乃載與歸。立為師。舊本非熊作非羆。疑流俗承誤。後世莫知是正耳。按後漢崔駰逹旨辭曰。或以漁父見兆於元龜。註曰。西伯出獵。卜之曰。所獲非龍非螭。非熊非羆。所獲覇王之輔。所謂非熊蓋本諸此。

六韜(りくとう)に曰(い)ふ。文王、将に(かり)せんとす。史編(しへん)(ぼく)(し)ひて曰く、渭陽(いよう)に田(かり)せば、将に大(おほ)ひに得ん。に非ず、(みづち)に非ず、に非ず、(ひぐま)に非ず、(ちょう)公侯(こうこう)を得ん。天、(なんじ)に師を(おく)り、之を以て昌(しょう)(たす)け、(し)ひて三王に及ばん、と。文王曰く、兆(ちょう)、是れを致すか、と。史編曰く、編の太祖(たいそ)史疇(しちゅう)、舜の為に占ひて皐陶(こうよう)を得たり、兆、此れに比す、と。文王、乃ち(さい)すること三日(さんじつ)、渭陽(いよう)に田(かり)し、卒(つひ)に太公(たいこう)(ぼう)に座し以て(ぎょ)するを見る。文王、(ねぎら)ひて之を問ひ、乃ち載せて与(とも)に帰り、立てて師と為す。旧本に、非熊(ひゆう)を非羆(ひひ)に作る、疑ふらくは、流俗(りゅうぞく)誤りを(う)け、後世是正するを知る莫きのみ。按ずるに、後漢崔駰(さいいん)の達旨(たっし)の辞に曰く、或ひは漁父以て、兆を元亀(げんき)に見はす、と。注に曰く、西伯(せいはく)出猟(しゅつりょう)す、之を卜(ぼく)して曰く、獲る所は龍に非ず、(みづち)に非ず、熊に非ず、羆に非ず、獲る所は、覇王の輔ならん、と。所謂非熊(ひゆう)は蓋し諸(これ)を此に本づくならん。

六韜にいう。文王が狩猟に出かけようとした。史編が占って言った。渭陽(いよう)の地に狩をすれば、大いに得るものがありましょう。それは龍でも彲(みずち)でもなく、虎でも羆でもなく、占いには公侯たるに相応しい人物を得るとあります。天があなたに師たる人物をおくり、これを以てあなたを補佐し、その恩恵は三代に及ぶでしょう、と。文王が言った。本当にそんなことがあるのだろうか、と。史編が言った。私の太祖である史疇(しちゅう)は、舜のために占って皐陶(こうよう)を得ましたが、この結果はそれと同じでありましょう、と。文王は三日にわたって身を清め、然る後に渭陽(いよう)の地に狩りを行い、ついに太公望が茅葺(かやぶ)きに座して釣りするを見つけた。文王は労(ねぎら)ってこれに問い、御車に載せて共に帰り、立てて師とした。旧本に、非熊(ひゆう)を非羆(ひひ)に作るは、おそらく世の人々が誤りをそのまま受け継いで、真偽を明らかにしてこなかったせいであろう。思うに、後漢の崔駰(さいいん)の達旨(たっし)の言葉にいう、あるいは釣り人の身を以て、用うべきの兆候を占の大亀にあらわした、と。その注にいう、文王は出でて狩りせんとし、これを占って曰く、獲る所は龍に非ず、螭(みづち)に非ず、熊に非ず、羆に非ず、獲る所は、覇王の輔ならん、と。いま非熊に改めるはここに本づくのである。

楊震関西Link

後漢楊震字伯起。弘農華陰人。少好學明經。博覽無不窮究。諸儒為之語曰。關西孔子楊伯起。常客居於湖。不答州郡禮命數十年。衆謂之晩暮。而志愈篤。後有鸛雀。銜三鱣魚。飛集講堂前。都講取魚進曰。蛇鱣者卿大夫服之象也。數三者法三台也。先生自此升矣。年五十乃始仕州郡。安帝時為太尉。

後漢の楊震(ようしん)、字は伯起(はくき)、弘農(こうのう)華陰(かいん)の人なり。(わか)くして学を好み、経(けい)に明(めい)博覧(はくらん)窮究(きゅうきゅう)せざる無し。諸儒(しょじゅ)、之が語を(つく)りて曰く、関西(かんせい)の孔子、楊伯起(ようはくき)、と。常に湖(こ)客居(きゃくきょ)し、州郡(しゅうぐん)礼命(れいめい)に答へざること数十年、衆(しゅう)、之を晩暮(ばんぼ)と謂ふ。而して志(いよいよ)(あつ)し。後に鸛雀(かんじゃく)有り、三鱣魚(せんぎょ)(ふく)み、飛んで講堂の前に集まる。都講(とこう)、魚を取り、進めて曰く、蛇鱣(じゃせん)は卿大夫(けいたいふ)の服の(しょう)なり、数(すう)三は三台(のっと)るなり。先生、此れより(のぼ)らん、と。年五十、(すなは)ち始めて州郡(しゅうぐん)に仕へ、安帝(あんてい)の時に太尉(たいい)と為れり。

後漢の楊震(ようしん)、字は伯起(はくき)、弘農(こうのう)華陰(かいん)の人である。若くして学を好み、経書に通じ、広く見聞して究め尽くさぬものはなかった。当時の学者はこれを称して言った。関西の孔子、楊伯起(ようはくき)、と。常に湖城県に旅住まいし、政府の招聘に答えざること数十年、人々はこれを晩暮(ばんぼ)と呼んだ。楊震の志はますます篤かった。ある時、コウノトリが三匹の海蛇をふくんで飛び、講堂の前に集まった。塾長が海蛇をとって進めて言った。海蛇は卿大夫(けいたいふ)の服の模様に似ており、三という数は三公に通じます。先生の仕官出世を暗示しているのでしょう、と。歳五十にして始めて仕官し、安帝の時に太尉となった。

丁寬易東Link

前漢丁寛字子襄。梁人。初梁項生從田何受易。時寛為項生從者。讀易精敏。材過項生。遂事何。學成東歸。何謂門人曰。易已東矣。寛復從周王孫。受古義。號周氏傳。景帝時。為梁孝王将軍。作易説三萬言。訓詁舉大誼而已。

前漢(ぜんかん)丁寬(ていかん)、字は子襄(しじょう)、梁(りょう)の人なり。初め梁の項生(こうせい)、田何(でんか)に易を受く。時に寬(かん)、項生の従者たり、易を読むこと精敏(せいびん)、材、項生に過ぐ。遂に何(か)に事(つか)へ、学成りて東に帰す。何(か)、門人に謂ひて曰く、易、已(すで)に東す、と。寬(かん)(ま)た周王孫(しゅうおうそん)に従ひて古義(こぎ)を受け、周氏伝(しゅうしでん)と号す。景帝(けいてい)の時、梁の孝王(こうおう)の将軍と為る。易説三万言を(な)し、訓詁(くんこ)して大誼(たいぎ)を挙ぐるのみ。

前漢(ぜんかん)の丁寬(ていかん)、字は子襄(しじょう)、梁(りょう)の人である。初め梁の項生(こうせい)、田何(でんか)に易を学んだ。項生に従っていた頃、丁寬は易を読んで本質を捉えることに優れ、その素質は項生を凌ぐものであった。やがて田何に従い、学成って帰郷した。田何は門人に言った。易が東へ去っていく、と。丁寬はまた周王孫(しゅうおうそん)に従って古来の解釈を学び、周氏伝(しゅうしでん)と号した。景帝(けいてい)の時に梁の孝王(こうおう)の将軍となった。易説三万言を著述し、その注釈は大義を挙げるばかりであった。

謝安高潔Link

晉書。謝安字安石。陳國陽夏人。年四歳。桓彜見而嘆曰。此兒風神秀徹。後當不減王東海。王導亦深器之。由是少有重名。初辟除。竝以疾辭。有司奏。安被召。歴年不至。禁錮終身。遂棲遲東土。常往臨安山中。放情丘壑。然毎遊賞。必以妓女從。時弟萬。為西中郎將。總藩任之重。安雖處衡門。名出其右。有公輔望。年四十餘。始有仕志。征西大將軍桓温。請為司馬。朝士咸送。中丞髙崧戲之曰。卿屢違朝旨。高臥東山。諸人毎相與言。安石不肯出。將如蒼生何。今蒼生亦將如卿何。安有愧色。後拜吏部尚書。時孝武立。政不自已。桓温威振内外。安盡忠匡翼。終能輯穆。進中書監。録尚書事。苻堅率衆次淮肥。加安征討大都督。既破堅。以總統功進太保。薨贈太傅。諡文靖。

晋書にいふ。謝安(しゃあん)、字は安石(あんせき)、陳国(ちんこく)陽夏(ようか)の人なり。年四歳、桓彜(かんい)(まみ)へて嘆じて曰く、此の(じ)風神(ふうしん)秀徹(しゅうてつ)、後(のち)当に王東海(おうとうかい)に減(げん)ぜざるべし、と。王導(おうどう)も亦た深く之を(き)とす。是に由りて少(わか)きより重名(ちょうめい)有り。初め辟除(へきじょ)されしも、並びに(やまい)を以て辞す。有司(ゆうし)(そう)す、安(あん)、召(しょう)(こうむ)るも、年を歴(へ)て至らず、終身禁錮(きんこ)せん、と。遂に東土(とうど)棲遅(せいち)す。常に臨安(りんあん)の山中に往き、情を丘壑(きゅうがく)(ほしいまま)にし、(しか)遊賞(ゆうしょう)(ごと)に必ず妓女(ぎじょ)を以て従ふ。時に弟(てい)(ばん)、西中郎将(せいちゅうろうしょう)と為り、藩任(はんにん)(ちょう)(す)ぶ。安(あん)衡門(こうもん)に居ると雖も、名、其の右に出(い)で、公輔(こうほ)の望(ぼう)有り。年四十余、めて仕ふる志有り。征西大将軍(せいせいだいしょうぐん)桓温(かんおん)(こ)ふて司馬(しば)と為し、朝士(ちょうし)(みな)送る。中丞(ちゅうじょう)高崧(こうすう)、之に戯れて曰く、卿(けい)(しばしば)朝旨(ちょうし)(たが)ひ、東山(とうざん)高臥(こうが)す。諸人(しょじん)(つね)に相ひ与(とも)に言ふ、安石(あんせき)出づるを(がん)ぜずんば、将に蒼生(そうせい)を如何せんとすと。今、蒼生亦た将に卿を如何せんとす、と。安(あん)(は)づる色有り。後に吏部尚書(りぶしょうしょ)に拝(はい)せらる。時に孝武(こうぶ)立ち、政(せい)、己よりせず、桓温(かんおん)、威を内外に振るふ。安(あん)、忠を尽くして匡翼(きょうよく)し、終に能く輯穆(しゅうぼく)す。中書監(ちゅうしょかん)録尚書事(ろくしょうしょじ)に進む。苻堅(ふけん)、衆を率ひ、淮肥(わいひ)(じ)す。安(あん)に征討大都督(せいとうだいととく)を加ふ。既にして堅(けん)を破り、総統(そうとう)の功を以て太保(たいほ)に進み、(こう)じて太傅(たいふ)を贈り、文靖(ぶんせい)(おくりな)す。

晋書にいう。謝安(しゃあん)、字は安石(あんせき)、陳国(ちんこく)陽夏(ようか)の人である。四歳の時、桓彜(かんい)が見(まみ)えて嘆じて言った。この子の風格の並外れたる、やがて東海の王承にも劣らぬ者になるだろう、と。王導もまた深くこれを人物と認めた。こうして年少の頃から評判が高まった。はじめ召されて官に任ぜられたが、すべて病気を理由に断った。官吏が上申して言った。謝安はお召しに預かっても、一向に参りません、この上は終身幽閉してしまいましょう、と。遂に東の地へと隠棲した。常に臨安(りんあん)の山中にゆき、心のままに自然と楽しみ、しかも遊ぶ際には必ず芸妓(げいこ)を従えた。時に弟の謝萬が西中郎将となり、西方の国境を防ぐ大任をつかさどった。謝安は隠棲して粗末な家に在ったが、名声は謝萬の右に出で、人々は三公となって国政に関与することを願った。年四十余にして、始めて仕官の志を持った。征西大将軍(せいせいだいしょうぐん)の桓温(かんおん)に要請されて属官になり、朝廷の人々に見送られた。中丞(ちゅうじょう)の高崧(こうすう)が謝安に戯れて言った。貴方はしばしば朝廷の意向に背き、東山(とうざん)に隠棲して悠々と暮らしました。人々は常に言っていたものです「安石が出仕してくれなければ、私たちはどうなってしまうのか」と。今、人民はまた貴方をどのように思っていることでしょうか、と。謝安に恥ずる色がみえた。後に吏部尚書に拝命された。やがて孝武帝が即位したが、政事に自らの考えが通ることはなく、桓温の威勢は日増しに高まっていった。謝安は忠を尽して不和にならぬように補い、ついによく治めて乱れを防いだ。中書監、録尚書事に累進した。前秦の苻堅が大軍を率いて淮肥(わいひ)に進駐した。謝安に征討大都督(せいとうだいととく)の任が加えられた。見事に苻堅を破ると、功績によって太保となり、病没すると太傅を追贈され、文靖(ぶんせい)と謚号(しごう)された。

王導公忠Link

晉王導字茂宏。光禄大夫覧之孫。少有風鑒。識量清遠。陳留高士張公。見而奇之。謂其從兄敦曰。此兒容貌志氣。將相之器也。元帝為琅邪王。與導素相親善。導知天下已亂。遂傾心推奉。潜有興復之志。帝亦雅相器重。會帝出鎮下邳。請導為安東司馬。軍謀密策。知無不為。帝常謂曰。卿吾之蕭何也。累遷中書監。録尚書事。及帝登尊號。百官陪列。命導升御床共坐。導固辭曰。若太陽下同萬物。蒼生何由仰照。帝乃止。進位司空。

晋の王導(おうどう)、字は茂弘(もこう)光禄大夫(こうろくたいふ)(らん)の孫(そん)なり。少(わか)くして風鑑(ふうかん)有り、識量(しきりょう)清遠(せいえん)なり。陳留(ちんりゅう)高士(こうし)張公(ちょうこう)、見て之を(き)とし、其の従兄(じゅうけい)(とん)に謂ひて曰く、此の兒(じ)、容貌志気、将相(しょうそう)の器なり、と。元帝(げんてい)、琅邪王(ろうやおう)(た)り、導(どう)(もと)より相ひ親しみ善し。導(どう)、天下の已(すで)に乱るるを知り、遂に心を傾けて推奉(すいほう)し、(ひそか)興復(こうふく)の志有り。帝、亦た(もと)より相ひ器重(きちょう)す。帝、出でて下邳(かひ)(ちん)するに会ひ、導(どう)を請ひて安東(あんとう)司馬(しば)と為し、軍謀(ぐんぼう)密策(みっさく)、知りて為さざるは無し。帝、常に謂ひて曰く、卿(けい)は、吾の蕭何(しょうか)なり、と。中書監(ちゅうしょかん)録尚書事(ろくしょうしょじ)累遷(るいせん)す。帝、尊號(そんごう)に登るに及び、百官陪列(ばいれつ)す。導(どう)に命じ御床(ぎょしょう)(のぼ)り共に坐せしめんとす。導(どう)、固辞して曰く、(も)し太陽下りて万物に同じうせば、蒼生(そうせい)何に由りて(しょう)を仰がん、と。帝、乃ち止む。位を司空(しくう)に進む。

晋の王導(おうどう)、字は茂弘(もこう)、光禄大夫(こうろくたいふ)・王覧の子孫である。若くして人物眼に優れ、識見器量ともに人の及ばぬものがあった。陳留(ちんりゅう)の名士であった張公(ちょうこう)は、見(まみ)えて人物と認め、その従兄(いとこ)である王敦に嘆じて言った。この子の容貌志気は将相(しょうそう)の器である、と。元帝が琅邪王(ろうやおう)であった時、王導と互いによく親しみ交わっていた。王導は晋の滅亡と乱世の到来を察知すると、遂に心を傾けて元帝を推戴し、ひそかに晋朝の復権を志した。元帝もまた王導を信頼し重んじた。元帝は安東将軍として下邳に赴任すると、王導を招聘して安東司馬に任じ、あらゆる計画を王導に計り実行させた。元帝は常に語って言った。貴方は私の蕭何(しょうか)である、と。中書監、録尚書事に累進した。元帝が天子の位に上るに及び、諸臣が位に従って列座した。王導に命じ、玉座に登らせて共に座らせようとした。王導は固辞して言った。もし太陽が下って万物と同じ位置にいたとすれば、人々はどのようにして照(しょう)を仰げばよいのでしょうか、と。元帝はすなわち止めた。位は司空に進んだ。

匡衡鑿壁Link

前漢匡衡。字稚圭。東海承人。父世農夫。至衡好學。家貧。庸作以供資用。尤精力過絶人。諸儒為之語曰。無説詩。匡鼎來。匡説詩。解人頤。射策甲科。元帝時為丞相。西京雜記曰。衡勤學無燭。鄰舎有燭而不逮。衡乃穿壁。引其光而讀之。邑大姓文不識。名家富多書。衡乃與其客作。而不求償。願得書遍讀之。主人感歎。資給以書。遂成大學。

前漢の匡衡(きょうこう)、字は稚圭(ちけい)、東海承(とうかいしょう)の人なり。父は(よよ)に農夫、衡(こう)に至りて学を好む。家貧し、庸作(ようさく)を以て資用(しよう)に供す。(もっと)精力人に過絶(かぜつ)す。諸儒、之が語を(つく)りて曰く、詩を説くこと無かれ、匡(きょう)(まさ)に来(きた)る。匡(きょう)の詩を説く、人の(おとがひ)を解く、と。射策(しゃさく)甲科(こうか)たり、元帝の時、丞相と為る。西京雑記(せいきょうざっき)に曰く、衡(こう)、学を勤めて(しょく)無し、鄰舎(りんしゃ)(しょく)有れども(およ)ばず、衡(こう)、乃ち壁を穿(うが)ち、其の光を引きて之を読む。(ゆう)大姓(たいせい)文不識(ぶんふしき)、名家にして富み、書多し。衡(こう)、乃ち其れが(ため)客作(きゃくさく)し、而して(しょう)を求めず、書を得て(あまね)く之を読まんことを願ふ。主人感歎し、資給(しきゅう)するに書を以てし、遂に大学と成る、と。

前漢の匡衡(きょうこう)、字は稚圭(ちけい)、東海承(とうかいしょう)の人である。父は世々に農夫の家柄で、匡衡(きょうこう)に至って学を好んだ。家は貧しく、日雇い労働で生活を支えた。匡衡(きょうこう)の学問に励むこと、衆人の及びつかぬ程であった。諸々の儒学者はこれを称して言った。詩経を説いてはいけない、匡衡(きょうこう)がやって来る。匡衡(きょうこう)が詩経を説けば、誰もが口を開けて聴き入るのだ、と。官吏試験を受けて優秀な成績をおさめ、元帝の時に丞相となった。西京雑記(せいきょうざっき)にいう。匡衡(きょうこう)は学問に勤めていたが明かりが無く、隣家には明かりがあったが手元までは届かず、故に壁に穴を開けてその光を引き込んで書物を読んだ。郷里の権威者であった文不識(ぶんふしき)は、名家にして富み、多数の書物を所蔵していた。匡衡(きょうこう)はその書物を目当てに使用人となり、報酬を求めず、書物を借りて遍く読むことを願った。主人は感嘆し、用立てるに書物を以てし、遂に大学者と成った、と。

孫敬閉戸Link

楚國先賢傳。孫敬字文寳。常閉戸讀書。睡則以繩繋頸。懸之梁上。嘗入市。市人見之。皆曰。閉戸先生來也。辟命不至。

楚国先賢伝(そこくせんけんでん)にいふ。孫敬(そんけい)、字は文寳(ぶんぽう)、常に戸を閉じて書を読み、(すい)さば則ち縄を以て(くび)(か )け、之を梁上(りょうじょう)(か)く。(かつ)(いち)に入る。市人(しじん)之を見て、皆な曰く、閉戸(へいこ)先生来(きた)る、と。辟命(へきめい)せらるるも至らず。

楚国先賢伝(そこくせんけんでん)にいう。孫敬(そんけい)、字は文寳(ぶんぽう)、常に戸を閉じて書物を読み、眠くなると縄を首にくくり、これをはりの上#1にかけた。かつて市場に出かけた。市場の人々はこれを見て、皆な言った。閉戸(へいこ)先生が来たぞ、と。官に招かれたが応じることはなかった。

郅都蒼鷹Link

前漢郅都。河東大陽人。景帝時為中郎將。敢直諌。面折大臣於朝。遷中尉。是時民樸畏罪自重。而都獨先嚴酷。致行法不避貴戚。列侯宗室見都。皆側目而視。號曰蒼鷹。拜鴈門大守。匈奴素聞都節。舉邊引去。竟都死不近鴈門。匈奴至為偶人象都。令騎馳射。莫能中。其見憚如此。匈奴患之。竇太后。乃中都以漢法。卒斬之。

前漢の郅都(しつと)、河東(かとう)大陽(たいよう)の人なり。景帝(けいてい)の時、中郎将(ちゅうろうしょう)と為る。敢へて直諫(ちょくかん)し、大臣を朝(ちょう)面折(めんせき)す。中尉(ちゅうい)(うつ)る。是の時、民(ぼく)にして罪を畏れ自重(じちょう)す、而して都(と)、独り厳酷(げんこく)を先にし 、法を致し行ふに、貴戚(きせき)を避けず。列侯(れっこう)宗室(そうしつ)、都(と)を見るに、皆な目を(そばだ)てて視、號(ごう)して蒼鷹(そうよう)(い)ふ。雁門(がんもん)太守を拝す。匈奴(きょうど)(もと)より都(と)(せつ)を聞き、辺を(こぞ)つて為に引き去り、都(と)が死を(おは)るまで雁門(がんもん)に近づかず。匈奴、偶人(ぐうじん)(つく)りて都(と)(かたど)り、騎をして馳射(ちしゃ)せしむるに、能く(あた)る莫きに至る。其の(はばか)り見ること此の如し。匈奴、之を(うれ)ふ。竇太后(とうたいごう)、乃ち都(と)(あ)つるに漢法を以てし、(つひ)に之を斬る。

前漢の郅都(しつと)は河東(かとう)大陽(たいよう)の人である。景帝(けいてい)の時に中郎将(ちゅうろうしょう)となった。誰に恐れることなく直言して諌め、諸官の列座する前で大臣の過失を責めた。中尉に昇格した。この時、民衆は素朴に罪を畏れて自重したが、郅都(しつと)は厳酷を第一とし、処罰するにたとえ高官・名家であっても許さなかった。諸侯や皇族は郅都(しつと)を見るに正視することが出来ず、号して「蒼鷹(そうよう)」と呼んだ。雁門(がんもん)の太守に任じられた。匈奴は以前から郅都(しつと)の節度厳酷なるを聞き、辺境から挙(こぞ)って引き去り、郅都(しつと)が死するまで雁門(がんもん)に近づかなかった。匈奴は人形を作り、郅都(しつと)に似せ、騎者に命じて馬上から射させたが、遂に当たらなかった。その憚(はばか)り見ること、このようであった。匈奴はこれを患えた。竇太后(とうたいごう)は郅都(しつと)に報いるに漢法を以てし、ついにこれを斬った。

寗成乳虎Link

前漢寗成。南陽穰人。以郎謁者。事景帝。好氣。為小吏。必陵其長吏。為人上。操下急如束濕薪。為中尉。其治效郅都。其廉弗如。武帝即位。徙為内史。外戚多毀其短抵罪。後上欲以為郡守。公孫弘曰。臣為小吏時。成為濟南都尉。其治如狼牧羊。不可使治民。上乃拜為關都尉。歳餘。關東吏隷郡國出入關者。號曰。寧見乳虎。無値寗成之怒。其暴如此。

前漢の寗成(ねいせい)、南陽穣(なんようじょう)の人なり。郎謁者(ろうえっしゃ)を以て景帝(けいてい)に事(つか)へ、(き)を好み、小吏(しょうり)と為らば、必ず其の長吏(ちょうり)(しの)ぎ、人の上と為らば、下を(と)ること急にして、濕薪(しっしん)(たば)ぬるが如し。中尉と為る。其の治は郅都(しつと)(なら)ふも、其の(れん)(しか)ず。武帝の即位するや、(うつ)りて内史(ないし)と為る。外戚(がいせき)、多く其の(たん)(そし)り罪に(いた)る。後、上(じょう)以て郡守に為さんと欲す。公孫弘(こうそんこう)曰く、臣、小吏(しょうり)(た)りし時、成(せい)、済南(せいなん)都尉(とい)(た)り。其の治、狼の羊を牧するが如く、民を治めしむ可からず、と。上、乃ち拝して関都尉(かんとい)と為す。歳余(さいよ)、関東の吏(り)、郡国(ぐんこく)を隷(れい)して関に出入する者、號(ごう)して曰く、(むし)乳虎(にゅうこ)を見るも、寗成(ねいせい)の怒りに(あ)ふこと無かれ、と。其の暴なること(かく)の如し。

前漢の寗成(ねいせい)は南陽穣(なんようじょう)の人である。郎謁者(ろうえっしゃ)として景帝(けいてい)に仕え、男気を出すを好み、下に在れば必ずその上司を押しのけ、上司となれば部下を締め付けること湿った薪(たきぎ)を束ねるが如くに厳酷であった。中尉となった。その治め方は郅都(しつと)にならったが、その廉直さは足らなかった。武帝が即位すると、遷(うつ)って内史(ないし)になった。外戚(がいせき)の多くがその欠点を非難し、罪に触れた。後に武帝は郡守に任じようとした。公孫弘(こうそんこう)が言った。私がまだ小役人であった時、寗成(ねいせい)は済南(せいなん)太守の下役でした。その治め方は狼が羊を牧すが如きでしたから、民を治めさせるには相応しくありません、と。武帝はこれを受けて関都尉(かんとい)に任じた。一年ほど経つと、関東の官吏で各地に検閲のために関所を出入りする者達はこぞって言った。むしろ子守りで高ぶる虎に出会うとしても、寗成(ねいせい)の怒りにあうよりはましだ、と。その暴虐なること、このようであった。

周嵩狼抗Link

晉書。周嵩字仲智。兄顗字伯仁。汝南安成人。中興時。顗等竝列貴位。嘗冬至置酒。其母擧觴賜三子曰。吾本渡江。託足無所。不謂爾等並貴。列吾目前。吾復何憂。嵩起曰。恐不如尊旨。伯仁志大而才短。名重而識闇。好乗人之弊。非自全之道。嵩性抗直。亦不容於世。惟阿奴碌碌。當在阿母目下耳。阿奴嵩弟謨小字也。後顗嵩竝為王敦所害。謨歴侍中護軍。世説抗直作狼抗。晉書周顗傳。處仲剛愎強忍。狼抗無上。處仲王敦字也。

晋書にいふ。周嵩(しゅうすう)、字は仲智(ちゅうち)、兄・顗(ぎ)、字は伯仁(はくじん)、汝南(じょなん)安成(あんせい)の人なり。中興(ちゅうこう)の時、顗(ぎ)等並びに貴位(きい)に列す。(かつ)冬至(とうじ)に酒を置き、其の母、(さかづ)きを挙げて三子(さんし)に賜ひて曰く、吾れ本(も)と江(こう)を渡り、足を(たく)する所無し。(おも)はざりき、(なんじ)等、並びに貴く、吾が目前に列せんとは。吾れ(ま)た何をか憂へん、と。嵩(すう)、起ちて曰く、恐らくは尊旨(そんし)の如くならざらん。伯仁(はくじん)は志(こころざし)(だい)にして才(さい)短く、名重くして識(しき)(くら)く、好みて人の(へい)に乗ず、自全(じぜん)の道に非ず。嵩(すう)は性(せい)抗直(こうちょく)、亦た世に(い)れられず。(た)だ阿奴(あど)碌碌(ろくろく)、当に阿母(あぼ)目下(もっか)に在るべきのみ、と。阿奴(あど)は嵩(すう)が弟、謨(ぼ)小字(しょうじ)なり。後に顗(ぎ)、嵩(すう)並びに王敦(おうとん)の害す所と為る。謨(ぼ)侍中(じちゅう)護軍(ごぐん)(へ)たり。世説(せせつ)に抗直(こうちょく)を狼抗(ろうこう)に作る。晋書周顗(しゅうぎ)伝にいふ。處仲(しょちゅう)剛愎(ごうふく)強忍(きょうにん)狼抗(ろうこう)(かみ)(な)みす、と。處仲(しょちゅう)は王敦(おうとん)の字なり。

晋書にいう。周嵩(しゅうすう)、字は仲智(ちゅうち)、兄の顗(ぎ)、字は伯仁(はくじん)、汝南(じょなん)安成(あんせい)の人である。元帝の時、二人は共に高い地位にいた。かつて冬至に酒宴を開き、その母が盃(さかずき)を挙げて三人の子供に与えて言った。私は落ちぶれて揚子江を渡り、身を寄せるところもない有様でした。思いもよらないことです、お前達がそろって貴くなり、私の前に並ぶとは。私にはもう憂うべきものなど何もありません、と。周嵩(しゅうすう)が立ち上がって言った。おそらくはお考えのようにはなりません。兄は大きな志を抱くも才が足らず、名声を得るも見識が及ばず、好んで人の失敗に付け込みますから、自らを全うする道ではありません。私は何でも押し通して譲らぬ性質ですから、また世の中と相容れません。ただ弟の阿奴(あど)は凡庸ですから、まさに母上のお側に居ることができましょう、と。阿奴(あど)は周嵩(しゅうすう)の弟、周謨(しゅうぼ)の幼名である。後に周顗(しゅうぎ)と周嵩(しゅうすう)はそろって王敦(おうとん)に殺害された。周謨(しゅうぼ)は侍中(じちゅう)・護軍(ごぐん)を歴任した。世説新語(せせつしんご)では抗直(こうちょく)を狼抗(ろうこう)に作る。晋書の周顗(しゅうぎ)伝にいう。處仲(しょちゅう)は剛情にして残忍、主意に従うことなく主君を蔑(ないがし)ろにした、と。處仲(しょちゅう)は王敦(おうとん)の字(あざな)である。

梁冀跋扈Link

後漢梁冀字伯卓。褒親愍侯竦之曾孫。為人鳶肩豺目。洞精瞠眄。口吟舌言。拜大將軍。侈暴滋甚。冲帝崩。冀立質帝。少聰恵。知冀驕横。嘗朝羣臣。目冀曰。此跋扈將軍也。冀聞深悪之遂鴆殺。復立桓帝。而枉害太尉李固杜喬。海内嗟懼。其四方調發。歳時貢獻。皆先輸上第於冀。乗輿乃其次焉。一門前後七封侯。三皇后六貴人。二將軍。在位二十餘年。窮極滿盛。威行内外。百僚側目。莫敢違命。天子恭已。不得有所親豫。帝既不平之。後發怒誅冀。中外宗親。無長少皆棄市。他連及公卿列校刺史二千石。死者數十人。故吏賓客。免黜者三百餘人。朝廷為空。收冀財貨三十餘萬。以充王府。用減天下税租之半。

後漢の梁冀(りょうき)、字は伯卓(はくたく)、褒親愍侯(ほうしんびんこう)(しょう)の曾孫(そうそん)なり。人と為り、鳶肩(えんけん)豺目(さいもく)洞精(どうせい)瞠眄(どうべん)口吟(こうぎん)舌言(ぜつげん)す。大将軍に拝せられ、侈暴(しぼう)(ますます)甚だし。冲帝(ちゅうてい)崩じ、冀(き)、質帝(しつてい)を立つ。少(わか)くして聡慧(そうけい)、冀(き)驕横(きょうおう)を知り、(かつ)て群臣を朝(ちょう)せしめ、冀(き)(もく)して曰く、此れ跋扈(ばっこ)将軍なり、と。冀(き)、聞きて深く之を(にく)み、遂に鴆殺(ちんさつ)し、復(ま)た桓帝(かんてい)を立て、而して太尉(たいい)李固(りこ)、杜喬(ときょう)枉害(おうがい)す。海内(かいだい)(なげ)(おそ)る。其の四方の調発(ちょうはつ)歳時(さいじ)貢献(こうけん)、皆な先づ上第(じょうだい)を冀(き)(おく)り、乗輿(じょうよ)は乃ち其の次なり。一門前後七封侯(しちほうこう)、三皇后(さんこうごう)、六貴人(ろくきじん)、二将軍。在位二十余年、満盛(まんせい)窮極(きゅうきょく)し、威、内外に行はれ、百僚(ひゃくりょう)目を(そばだ)て、敢へて命に(たが)ふ莫く、天子己(おのれ)(うやうや)しくし、親豫(しんよ)する所有るを得ず。帝、既に之に不平なり、後に怒(ど)を発し冀(き)を誅す。中外(ちゅうがい)宗親(そうしん)長少(ちょうしょう)無く皆な棄市(きし)し、他の連及(れんきゅう)する公卿(こうけい)列校(れっこう)刺史(しし)二千石にして、死する者数十人、故吏(こり)賓客(ひんきゃく)免黜(めんしゅつ)せらる者三百余人、朝廷、為に(むな)し。冀(き)の財貨三十余万を収め、以て王府(おうふ)(あ)つ、(もつ)て天下の税租(ぜいそ)の半ばを減ず。

後漢の梁冀(りょうき)、字は伯卓(はくたく)、褒親愍侯(ほうしんびんこう)・梁竦(りょうしょう)の曾孫(そうそん)である。その人となりは、高く角張った肩に鋭い目をもち、すべてを見通すが如き眼光で圧したが、言葉は不明瞭で重厚さに欠けた。大将軍を拝任すると、その横暴はますます激しくなった。冲帝(ちゅうてい)が崩じると、梁冀は質帝(しつてい)を擁立した。年少だが聡明な質帝は、梁冀の横暴を知ると、群臣との朝見に際して、梁冀を目(もく)して言った。これは跋扈将軍である、と。梁冀はこれを聞いて深く憎み、遂に毒殺して、今度は桓帝(かんてい)を擁立し、太尉の李固(りこ)と杜喬(ときょう)を罪に陥れて殺害した。人々は嘆き恐れた。四方からの年貢や時節に諸侯の貢ぎ物が来ると、皆な最初に一番良い物を梁冀に進呈し、天子はその次であった。一門は前後で、七人の諸侯、三人の皇后、六人の貴人、二人の将軍を輩出した。在位すること二十数年、世の栄華を極め、威勢はあまねく天下に達し、朝廷の者たちは目をそむけて命令に違(たが)うことなく、天子もまた意に背かぬようにして政治に自ら関与することはなかった。天子の不平は溜まり、後に怒りが爆発し、梁冀を誅滅した。父方母方の親族、年の長幼関係なく、一門は皆な市中に刑死し、連座して死する三公九卿列校(れっこう)刺史(しし)など二千石の禄の者たちは数十人、縁故ある官吏、賓客(ひんきゃく)で免職となる者は三百人超、ために朝廷は閑散とした。梁冀の財貨三十余万を接収して国庫に入れ、天下の租税の半分が減じられた。

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